漫画とアニメを一気見しました。年末年始に何しとんねん。
ブレインストーミング
- 問題は「人」ではなく「構造」にある。誰も悪くない。これは「環境」と「関係」の問題だ。
- 誰も悪くない=誰も責任を取れない。作中に登場する親たちの親としての機能不全は、彼らが所属するより上位の「環境(経済的状況、労働環境、教育)」からの圧力に対する、彼らなりの「適応」の結果だ。
- これは悪意の連鎖ではなく、フィードバックループの連鎖だ。これを断ち切るのは、個人の意志ではあまりにも難しいと思う。
- 解決できるのは、構造を変えられる立場の人間だ。本来「責任者」とはそういうもので、当然「問題の原因」にもなり得るけど、「問題の原因」と同義語ではない。
- 問題があれば「誰かの所為(いわゆるスケープゴート)」にする心理は、様々なところで、様々なスケールで見られる。
- 作中においては、まりなの家庭が典型的だった。父親は自分の行動を棚に上げて、妻に対し「お前が悪い」と言い続け、母親は「自分の所為」と言いながら「まりなの所為」に転化し、まりなは両親の不和を「しずかの母親の所為」から「しずかの所為」に転化した。
- これには「コントロール可能な相手だから」ということも重なっているけど、それは後述。
- 作中においては、まりなの家庭が典型的だった。父親は自分の行動を棚に上げて、妻に対し「お前が悪い」と言い続け、母親は「自分の所為」と言いながら「まりなの所為」に転化し、まりなは両親の不和を「しずかの母親の所為」から「しずかの所為」に転化した。
- 構造に問題があるのであれば、「責任者を変えれば(あるいは消せば)解決」とはならない。責任者は構造を変えられる立場にあるが、構造そのものではない。
- 誰が構造を変えることができたのか。
- 子どもたちの問題の責任者としては当然、親や教師がいる。
- 親や教師も含めた問題として捉えれば、通報さえあれば児相や警察も介入できただろう。ただいずれも、構造的な問題を解決できるかというとちょっと怪しい気もしてしまう。
- もはや地域、社会レベルの問題とも捉えられるわけだけど、となると結局、行政になる。
- 行政による解決には、より厳密に問題を定義する必要があるんじゃないだろうか。行政が解決策を間違えると大変だ。だから動き出すのに時間がかかってしまう。日本の場合は特に(それは問題としてよく挙げられるけど、僕は時に利点にもなり得ると思っている。バッファサイズが大きいことは何も悪いことばかりじゃない。だから本当の問題は、ケースによってバッファサイズを変えられない柔軟性のなさなのかもしれない)。
- 問題があれば「誰かの所為(いわゆるスケープゴート)」にする心理は、様々なところで、様々なスケールで見られる。
- 人格には先天的なものと後天的なものがある。
- 先天的な人格: 遺伝によるもの。親子は脳の「構造」が似る。
- 後天的な人格: 環境、もっというと「学習(知識や経験)」によるもの。つまり内部モデル。
- 例えば先天的に「誠実性」の高い、短期報酬よりも長期報酬を選ぶ人間であっても、SNSやギャンブルなどで「短期報酬中毒」に陥る可能性がある。報酬が簡単に得られることを学習してしまうからだ。
- まりなの「すぐに手が出る」のは先天的なものだろうか、後天的なものだろうか。
- 仮説として、彼女なりの「適応」があり得る。両親の不和、暴力といった不快な予測誤差に対して、幼い彼女は能動的推論(行動による世界の更新)を行うことができない。父親の浮気を止めることも、両親の喧嘩を止めることも、母親の暴力を止めることもできない(一応、機嫌を取って回避しようとはしているけど)。
- 彼女は両親の暴言と暴力、つまり「他者への加害」を(無意識的に)学習した。
- でも作中では両親の仲が悪くなる前の様子も描かれていて、その時点ではとても子供に暴力を振るう家庭には見えない。小学生の頃から家庭内暴力が始まったとして、それを学習してしまうものだろうか。
- 彼女が両親の不和に対して実行可能な能動的推論は、しずかに対するいじめだけだったのかもしれない。
- 「立入禁止」エリアの中でまりながしずかに暴行を加えるシーンでは、その物理的な暴力も言葉の暴力も、あまりに自己投影的だった。まりなは拳で殴らない。常に平手打ちだ。母親が自分にやるように。
- 唐突に自分の話で申し訳ないけど、僕は小学生の頃、同級生を拳で殴っていた。父親に拳で殴られていたからかもしれない。
- まりなの母親も、「思い通りにできない」ことへのトラウマがあるように思える。彼女にとって唯一思い通り(味方)でいてくれるのは、娘だけだったのだろう。
- 親目線で見ると、子供の「わがまま」への向き合い方をよく考えなければいけないのだろうなと思う。道徳的にやっていけないことは教えながらも、ちゃんと自分の行動で世界を更新させられることを経験させなければいけない。大雑把に例を挙げれば「遊び」と「ものづくり」。その中でもお絵かきは、最も手軽にできる「世界の更新」だ。
- 「立入禁止」エリアの中でまりながしずかに暴行を加えるシーンでは、その物理的な暴力も言葉の暴力も、あまりに自己投影的だった。まりなは拳で殴らない。常に平手打ちだ。母親が自分にやるように。
- 彼女は両親の暴言と暴力、つまり「他者への加害」を(無意識的に)学習した。
- 人は自分を正当化することによって、自ら他人を攻撃する許可を作り出す。他人を「悪」とすることで攻撃対象にするか、あるいは他人を攻撃するために理由を後付けする。まりなにとってのしずかは、正当な理由のある攻撃対象だった。
- まりなの攻撃癖は、最終回の最後のシーンでも相変わらず。でもそれは暴力ではなく、まりなにとってのコミュニケーション手段だった。
- 仮説として、彼女なりの「適応」があり得る。両親の不和、暴力といった不快な予測誤差に対して、幼い彼女は能動的推論(行動による世界の更新)を行うことができない。父親の浮気を止めることも、両親の喧嘩を止めることも、母親の暴力を止めることもできない(一応、機嫌を取って回避しようとはしているけど)。
- 誰も悪くない=誰も責任を取れない。作中に登場する親たちの親としての機能不全は、彼らが所属するより上位の「環境(経済的状況、労働環境、教育)」からの圧力に対する、彼らなりの「適応」の結果だ。
- 道具は解決にならない。表面的な問題を解決しても、根本的な問題は解決どころか悪化しかねない。
- 特に複雑な構造から起こる問題に対し、切り取られた一部(表面的な出来事)だけを観察・分析して解決することは難しい。解決どころか事態を悪化させる可能性があるし、作中では実際にそうなった。
- 現実の歴史における例としては、奄美大島にハブ対策として放たれたマングース。
- 作中においては、タコピーの表面的な解決(宿題や給食、ノート、ランドセルなど)が、まりなの能動的推論(いじめ)を妨害し、体育倉庫裏での暴行へとエスカレートさせた。
- 問題を解決するには、問題をよく理解する必要がある。タコピーはしずかやまりなたち「個人」のことも、彼女たちの「関係」も、置かれた「環境」も理解しないままに、浅はかな解決方法を提示していた。少なくとも最初のうちは。
- タコピーの素晴らしいところは、理解しようと努め続けたことにある。だからこそ最終話でしずかに寄り添うことができたし、最後の決断ができた。
- 構造的な問題の解決には、時間的にも経済的にも膨大なリソースが必要だ。慎重に、時間をかけて、構造を変えていくか技術的な解決策を構築していくしかない。
- 特に複雑な構造から起こる問題に対し、切り取られた一部(表面的な出来事)だけを観察・分析して解決することは難しい。解決どころか事態を悪化させる可能性があるし、作中では実際にそうなった。
- 人間関係の問題として絞り込んで考えると、より難しいものになってくる。
- 特に親子関係は、遺伝や幼少期の学習・愛着形成によって悪循環が生まれやすい。親の抱える問題は子に受け継がれ、その子がまた親となる。
- 家庭はオートポイエーシス的な、閉鎖的なシステムなのかもしれない。
- 人間関係は、人それぞれが個性を持つ以上、摩擦は生まれるものだから仕方ない面もある。
- 特に親子関係は、遺伝や幼少期の学習・愛着形成によって悪循環が生まれやすい。親の抱える問題は子に受け継がれ、その子がまた親となる。
- 「誰かを助ける/ハッピーにする」には、常に何かしらのコストがかかる。
- この作中の出来事は常に、誰かを救うために、結果的に誰かが犠牲になるというものだった。
- リソースの限られた「閉じた系」では、誰かが身銭を切らなければ、誰も救うことはできない。
- この作品は、構造的な問題を抱える中で、出来得る限りの改善(ハッピー)を目指す物語だった。
- 「解決」は子どもたちにも、あの親たちにも、行政にとっても難しいだろう。
- その場、その時に出来るのは、状況を乗り越えること。
- そのために苦しみを和らげること。革命(構造的改革)ではなく、健全な形での「適応」。
- 手段の一つは、誰かに話を聞いてもらい、「苦しみ」あるいは「価値観」を共有すること。
- 「苦しみ」とは、自由エネルギー原理で言えば「予測誤差」にあたるのだろうか。予測誤差を二人で共有することで、一人では抱えきれないほどの誤差にも耐えられる(最小化できる)、ということなのかもしれない。
- ただし聞き手がその「苦しみ」に共感または理解することが求められる。
- 「解決」を試みる必要はない。例え問題や苦しみを深く理解しても、解決には別次元の理解が求められるしコストもかかる。そして上に書いたように、解決どころか事態を悪化させる可能性がある。
- 上位構造(社会や両親との関係)を変えることは非常に難しいけど、自分に近い下位構造(友人や兄弟との関係)であれば、変えることは比較的簡単になる。
- タコピーは最終的にそれを果たした。親は変わってないし、相変わらず苦しい思いはしているけど、少なくともそれを共有できる相手ができたことで、苦しみを和らげることが可能になった。何より子どもたち三人にとって「自分を苦しませる存在」だった相手が「苦しみを共有できる存在」になったことは、とてつもなく大きい。
- 関係は本来、変化し続けるものだ。ところが、変化が「バランスを取るもの」ではなく「閉鎖的な悪循環」に陥ることがある。
もう一つ考えたこと:システム論は冷酷か?
自分はまだシステム論を理解できていないけど、人格や感情すらもシステムとして分析することには、それを試みている自分でも嫌悪感を抱くことがある。ちょっと冷酷すぎやしないかと。でも本当に冷酷だろうか?
感情と論理、どちらか一方では解決の難しい問題はどこにでもある。大事なのは、深く、広く、物理法則、脳の働きや心理から、社会の構造、それらの履歴といった、多角的で多面的でマルチスケールな見方で問題を観察・分析し、一番の問題、助けが必要なのはどこか・誰かを考えること。そして「表面的な解決策」ではなく、リソースを考慮しつつ可能な限りの「構造的改善策」を実行すること。その改善策は「被害者たち」の感情に寄り添った、温かいものにだってなり得るんじゃないだろうか。抽象的な理想論だけど。
参考
- ドネラ・H・メドウズ『世界はシステムで動く』
- 自由エネルギー原理 - Wikipedia
- ビッグファイブ(心理学) - Wikipedia
To Do
- 『日経サイエンス』2026年2月号
- R・ローレンツ『攻撃』
- 岩波科学ライブラリの自由エネルギー原理の本。
- 孤立した人間同士が「価値観(内部モデルの一部)」を共有することで、一人では抱えきれない「苦しみ(予測誤差)」を二人で最小化できるようになる、と自由エネルギー原理やシステム論で考えることはできるだろうか。